対自核

セラピーの一環としての自分語り

疲れちゃった

 交通事故の記事で、事故の原因を作ったドライバーの談話として、

「スピードを出しすぎちゃった」などと一部を切り取ったであろうコメントが

載ることがある。

個人的にこういうの、好きで好きでたまらない。

 

意図的に幼児言葉にすることで、容疑者の精神が成熟してないことを強調したい狙いがあるのだろうが、これ、憶測になってしまうのだが「スピードを出しすぎちゃったんですよね。」くらいのことは言ってると思うのだ。まあ・・・見出しのインパクトはたしかにある。というか僕のハートはぐぐっとわしづかみにされてしまうのだ。

 

僕も何回か事故ったり事故られたりしたから大変さは身に染みてわかっているので、笑ってしまってはいくならんでも不謹慎だろう、ト。それくらいの常識はある。

しかし悲惨な事故に遭われた当事者たちには大変申し訳ないが、これは卑怯でしょう。だって面白いもん。

 

で、そのコメントを見て「こんな幼稚な人間に運転させるな!」とか思うかと言えば

ぜんぜんそんなことなくて、逆に何か親近感のようなものすら沸いてしまうのだ。

これは僕がバカなだけなのかもしれず、イッパンの人達はフンガイするものなのかも

しれない。っていうか、たぶんそうなのだろう。

しかし、僕のように不謹慎にも喜んでしまうバカも一定数いるだろうとなんとなく

確信めいたものもあったりする。

まあ、死亡者が出てたりすると、さすがにマスコミのほうもそこまで攻めた見出しや

内容にしないとは思うのだが・・・。

 

 

 さて、強引な前フリから本題に入りたいと思うのですが、

4月に入り、やはり人生にはいろいろあるわけで、こころのほうが疲労困憊してしまっております。正直に言えば、現状から逃げ出したいと思っていたりします。

が、安易にそんなこともできず、精神がヤラれぼんやりしてしまったりで、すっかり

悪循環に陥っています。

いったんハマるとなかなか負のスパイラルから抜け出せないのが、病み者のやっかいな

ところで、「ハイッ!それはそれ!次!」と切り替えができるわけもなく、だんだんとネガい感情の底なし沼にずぶずぶとハマっていってしまうのが常だったりするのです。

 

有体に言って「疲れちゃった」ということです。なるほど5月病なるものは本当にあるものなのだなと妙に実感しております。やっぱメンタルが弱い人間は環境が変わると

アカンですわね。

 

とは言え、なんとか凌がなければならないし、今までもそうしてきたのですが、じゃあ過去どういう手法で切り抜けてきたか、まったく思い出せないのですわ。

たぶんそんな劇的な方法などではなく、本当にささいなことだったからだと思うのですが、それが思い出せない。もっとも、前回うまくいったから今回も効果があるとは限らないので絶対とは言えないのですが、まあ効果があるなら試したいものじゃないすか。

 

結局は今の状態に合わせて、探り探り行くしかないのでしょうけど、間に合わなくなっても知らんぞー!と危機感を自分で煽ってしまうのが悲しい。

よく、「何か効果があると思われる方法があれば教えてください」と言って他人からアドバイスをもらったりとかあるじゃないですか。経験上、これはまったく意味が無いです。

やっぱり人は人で自分に合った方法って自分でしか見つけられないものなのかもしれません。

 

以上、苦しい胸の内を吐き出させていただきましたが、こんなの読む人いるんすかね。

とてつもないネガティブなオーラが漂う怪文書にしか見えないす。

 

まあここは自分に向けて書いてるようなもんなので好きにやってるだけなんですが。

メチャクチャ後ろ向きな駄文で、読んでしまった方には本当に申し訳ないす。