対自核

セラピーの一環としての自分語り

蘇る10歳の記憶

 10歳といえば小学校4年生あたりなんですが、先日トートツにいろんな記憶が蘇ってきました。きっかけとか特にないので、なぜ浮上してきたのかよくわかんないですが。

 

今でこそ訳の分からないこと書いたり暴言吐いたりと、とても知性のかけらも見られな

いワタクシではありますが、当時はけっこう勉強ができて、神童の足元くらいには位置

していたのではないかと自分では思うのです。だいたい評価も5だったし運動もできました。

で、真の神童というべき友達(神童言うてもイナカの小学生なんでちょっと勉強できる

っていうくらいなんですが)が隣に座っていて、たぶん先生も競わせようとしたのか、

机もぴったりと寄せられていて、まあ仲も良かったっすね。

 

ある日、社会の時間だったのかな、神童が当てられて、教科書読みをした時のこと。

今でも忘れられないんですが、「人口」という単語を「ひとぐち」と読んでしまった

んですわ。神童のくせに。

 

僕は、「うわあ・・・やらかしたなこれは・・・」と思って聞いていたんですが、先生

も訂正しようとしないし、またやたらと人口という単語が出てきてそのたびに神童は

間違え倒していきました。

 

文章の途中で教科書読みも終わり、ホッとしたのもつかの間、今度は続きを僕が読むこ

とになってしまいました。これは明らかに先生が狙ってやってたんだと思いますね。

当時でも確信めいた直感がありました。「これはワザとだ!」っていう・・・。

 

神童様が「ひとぐち」と間違えて、明らかに動揺している僕をワザと指名する。仲が良

かったデキる2人のこの状況を明らかに楽しんでいたとしか思えない。けっこうSっケ

あった女の先生でした。

 

さて困ったことになった。そのころの僕はわりと空気読むマンだったので、神童の

お言葉を完全否定して「じんこう」と読むことができるのか。

できるわけないす。途中で、小声で「じんこうだよ、じんこう」とか、船場吉兆

女将みたいに囁くこともできたというのに、そのままスルーしてしまった僕にそんな。

 

僕は忸怩たる思いで「人口」のところを「ひとぐち」と若干小声になりながら読んで

いったのです。そこで「じんこう」と正しく読んだところで、友達を裏切ったことに

なるわけでもないし、あえて間違えることが友情の証だとか考えていたわけでもないのに。

ただただ、なぜこのタイミングで僕を指名した!っていう逆恨みに似た感情に飲みこ

まれながら教科書を読んでいきました。途中で「それは人口って読む」とか訂正され

るわけでもなく、僕の教科書読みは終了しました。

その後の先生の解説は何ごともなかったかのように、「じんこう」と読んでいました。

先生のメンタルはいったいどうなってるんだと10歳の僕でも不思議に思ったものです。

 

やっぱり楽しんでいたとしか思えない。

二人していい晒しものじゃないか。

 

 ただ、僕たちはこの女の先生を尊敬していて、実家(なんかすげぇデカイ旅館みたいな木造旧家)に召喚されてみんなで床掃除をさせられたり、今から考えると搾取みたいなことでも大喜びして小旅行気分で手伝いに行っていたものです。ほとんど崇拝していた

感じだったですね。

 

それもあって、その一件だけが、なぜか異質な思い出となって、また自分の中でも

何か苦み走ったシブい感情がずっと残っているのです。

 

 先生は元気にされてるかな。その時の先生のこころのヒダみたいなものを聞いて

みたいなあと思ったりもします。おそらく叶うことはないけれど。