対自核

セラピーの一環としての自分語り

あくまでも個人的な見解です

 夜半に、元社員の人から元社員の人の訃報が入った。数年前に辞めた人だが、

あまりの若さでの訃報にショックを受けた。

 

連絡を久しぶりに入れてくれたその人とやり取りをしていたが、あまりにも突然のこと

にお互い絶句気味だった。

その子とのいろいろな出来事を思い出したりしているうちに夜が明けてしまった。

最近、悲しいことが多い。それでも時間はすぐに過ぎていってしまうので、こちらと

しては生きていかなければならない。

 

 人はどうしたって最期は旅立っていく。

それが、いつでどこでどうようにの違いだけよ.....と言ってしまえば、あまりにも乾いて

いるかもしれない。

普通の人は、普段はそんなことは考えずに生活していると思うし。

 

 だた、生きていくということは、死に向かって進んでいっていることは間違いない

わけで、そこでよく「生きる意味ってあるんですか?」とかメンドクサイこと言う人が

出てきたりする。実際、よく聞かれる。なぜに俺にそんなこと聞くんだよ!とは思う

んですが。若い衆に多いすな。まあ今はなんというか閉塞感あふれる世の中だからかも

しれないすね。

 

「そうやって、なげいたり、悲しんだり、喜んだりっていう行為自体が生きる意味なん

だヨ!」とわかったようなわかんないようなことをいつも言ってますが、

ずっと生きてきてホントそうだと思いますね。ただし心から喜んだり悲しんだりしない

とちょっと薄いかもね....とは思います。うわべの感情ではなく、こころからが喜ぶと

いうか。

 

「別になにかコトを成し遂げるために生まれてきたわけでは無いかもしれない。

そういう役割を持った人は当然いるし、その人はそうなのかもしれないけど、君はそう

じゃないかもしれない。でも君は君でなにかあると思うよ。それが何かは俺にはわか

らんけど。」などと怪しいことも言ったりします。

ただ、無自覚に他人の人生に決定的な影響を与えていることはあるかもしれない。

それはその人が存在する意味があったってことになるんじゃないかな.....。

 

 僕は、個人的には、人生はエモであると思っていますね

エモくない人生はつまんないですよ。楽しんだり悲しんだり、ちょっと怒ったり。

それ自体を味わうというか。

今、訃報に接して悲しくて、ツライ。でもそういうことなんですよね。

 

短文にまとめることができずダラっとした文章になってしまったっす。