対自核

セラピーの一環としての自分語り

3月に恋する

 春は出会いと別れの季節と言われる。会社で学校で人が入れ替わるのだからそれは

至極当たり前のことなんですけど。

 

 3月に入ると学校を巣立っていく卒業生を見たり、自分がその立場になった時に、

ものすごく切ない気持ちになっていた。別に好きな人がいて、もう会えない.....とか

そういったバックグラウンドが無くても、なにかやるせないというか、不条理感の塊の

ような気持ちを覚えていた。小学校のころから特に意味もなく自然とそのような気持ち

になっていたから、何か人と違っていたのかもしれない。

 

いや、みんなそうだよ、とは言われるかもしれない。まわりの雰囲気とかでしょ、とか

大人の気持ちが伝染してるんだよ。。。とか。

そんなことをいつか言われた記憶もある。それって後付けでしょ?みたいな。

 

でもそんなことはなくて、あの消えてしまいたくなるような切ない気持ちにとまどった

記憶は、今でもはっきりと覚えているし、散っていく桜の下をひとりで歩く時に感じる

寂寥感は耐えられないレベルだった。

それで何か行動を起こすというわけではなかったのだが。だから余計にツラかったのか

もしれない。理由もなく襲ってくる脅迫的な切なさは、けっこうキツい。

やがてある時期からその気持ちがとんでもなく強くなり、涙が止まらなくなったり

した。

フォローしてくれる優しい人からは、感受性が豊かな子なんだね、と言われたりした

が、なせ涙が止まらないのか分からない自分がもどかしかった。

 

 

 社会人になり、会社を去っていく仲間を見送る時は、やはり哀しいものがあるし、

逆に、「次もがんばって!お元気で!」と送り出すどこか晴れやかな気持ちもあった

りするものだが、そういった気持ちとは違う。この場合はどちらかと言えば能動的な

ものだ。はっきりとした理由があっての気持ちなわけですし。

 

しかし、3月が来ると毎年必ずやってくる、この切ない気持ちはいったいなんだろう

と思う。自動的かつ自然発生的に忍び込んでくるこの気持ちは。メンタル的にかなり

不安定になってしまうから、けっこうダメージを食らっている。

 

そして、最近これに一番近い気持ちは、片思いをしている時の、あのどうしようもない

恋焦がれる気持ちに近いことに今更ながらに気づいた。

結局のところ、僕は3月に恋をしていているんだということに。

恋に恋をするという言葉があるが、正しくそれだな.....。

 

 

 

 もうすぐ3月がやってくる。今年も身をよじって煩悶するのだ。すでに覚悟は完了

している。毎年のことだからね。困ったもんなんですけど。

書いていて自分でもこれはちょっと気持ち悪い人だなと思った。